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ぐ~たらオタクの似非考察日記

アニメ・マンガ・ゲーム・ライトノベルについて考察するブログです。

作品世界と作者と読者を同一視する作品の読み方について:魔法科信者として思うこと

アニメ ライトノベル 漫画

togetter.com

 

上記のtoggterにおいて、代表的なラノベとして魔法科高校を読みラノベ周りに対しての批判を展開しています。

正直なところ、この手の魔法科高校に対する攻撃的な批判は一、信者*1である筆者からするともう一体何度目だろうか。というくらいには見飽きた状態です。

 

以前にこの手の批判に関する記事も書かせていただきました。

 

liatris.hatenablog.com

liatris.hatenablog.com

 

作品が好きかどうかというのは実際、個々人によって違うものであるし信者であるからといって別段作品が嫌いな人達を責めようというわけでもありません。*2

 

全く違う話になるのですが、実は以前から一つ感じていた大きな疑問点が一つあります。この際、この人達がよい具体例であるので本記事ではその事象を説明したいと思います。

 

まぁなんのことやらわからんと思うので以下、本題に入ります。

 

作品≠作者≠読者

私が以前から感じていた一つの問題点として最近あまりにも、作品と作者と読者の行動・思想に関しての同一視が多すぎるのではないかということです。

 

魔法科高校の劣等生では主人公「司波達也」は作品世界内でかなり強力な存在として描かれます。

それこそ場面によっては神のような能力を行使し、敵を惨殺するようなシーンさえあります。

司波達也は作品の中において、自立した存在であり自らの考える信念によって行動していきます。その中では作品内に出てくる敵対勢力を叩きのめし、自らの考える大目標の為には殺人行為も厭いません。

 

ここまで読んで司波達也にどのようなイメージをもったでしょうか。

敵を惨殺するひどい人?でしょうか。

実際、作品内で司波達也はかなり傲慢な性格で描かれ、容赦なく殺人行為をしていきます。

 

ここからが私が思っている疑問点なのですが、こういった主人公がでてきた際に最近良く使われる、作品を批判する手法があります。

それは作品で描かれることと作者を同一視する読み方です。

 

具体的にいってしまうと、

「主人公が作品内で敵を殺すことが多いので、作者は殺人が好きである。」

という読み方をする人がいらっしゃるということです。

 

というかこの読み方は魔法科を批判する層の間ではしばしば使われる読み方です。*3

実はこの手の作品批判は最近俺TUEEEE物と呼ばれる作品では共通する見られかたで特段、珍しいものではなくなっています。

 

正直に言わせてもらうと、この読み方間違ってませんか?と言いたくなります。

 ノンフィクションの作品では著者の考えはそのまま文章として出ることも有るかもしれません。

しかしながらファンタジー作品だとかエンタメ作品でこういった読み方をする人を見るといったいどういう読み方をしているんだと言いたくなります。

俺TUEEE物の作品を批判する時、「作者が主人公に自己投影しすぎ」だとか「作者が作品の中でくらいちやほやされたいんだろ」とかよく言われます。

 

ぶっちゃけいうと「そんなわけね~だろ」と言いたいです。

 

いや、そういう描き方をしている作家もいるかもしれませんが、作品を読む姿勢としてはどう考えてもフィクションの作品を読むのに適してるとは思えないのです。

 ライトノベル等の作品では架空の世界を描き、その架空の世界の法則に則った形で作品は進められていきます。

当然その世界では現実とは全く違った物理法則が展開され、全く違った価値観すら提示されることも有ります。

著者は架空世界を作る上ではどんな世界をつくろうと自由です。

別に殺人を忌避する文化がない世界だって描けますし、会話文すら存在しないような原始的な世界を描くことも自由です。

もちろん、そのように描かれた作品からどういったメッセージを読み取るかは読者の自由です。

この作品の中で描かれている価値観は生きる上で役に立たないし読む気が起きないとか、まったく共感できないとか思うのは当然自由です。

 ですが、イコール、全て作者の考え方でありまた読者も作品内で描かれている価値観がすべてそのとおりであると思うなんてそんなことはありえません。

 

どうも最近の批判を見ているとその辺の感覚が全く存在しなくてある意味びっくりします。

主人公に据えられたキャラがある種殺人鬼のような思考を持っていたとしても別に作者もそれを読んでいる読者もそういった思考を持っているとは限りません。

ただ単に作劇上、そうしたほうが面白いからそういう設定になっているにすぎないことがほとんどです。特にエンタメ作品はそういった場合が多いです。

もちろん、作者本人が殺人鬼だと自認しているので殺人鬼の考え方を世間に知らしめたいのだ、と自分が書いた小説に託すというやり方も可能ですが我々読者からそれを読み取るのは不可能です。*4

 

また、地の文で説明されているからといってそれが作者の思想であるなどというルールも存在しません。

あくまで、地の文というのは作品世界内で存在する物事の説明や叙述に使用されるのが基本です*5。第四の壁をぶっ壊してメタ的に解説する等といった手法もありますがそれが全てではありません。

ドラゴンボールの悟空が戦闘狂だからといって、作者の鳥山明先生本人が戦闘狂とは限らないですし、子供の育て方が現実の価値観から考えると一般的ではないとしても作者がそうだとは限りません。

あくまで悟空をそのようなキャラとして描いているにすぎません。

 

なぜ、このような読み方がそこかしこに広がっているのかが不思議ですがこういった思いを抱いている人は一旦考えてみて欲しいです。

 

というか最近思ったんだけど、作者と作品と読者を同一視してる人ってひょっとして自分の思想と違ったり、フィクショナルな作品を読めないのか? (;´-`)。oO(ぇ・・・)

 

 

 

余談:

どうも、漫画ではこういった作品の読み取り方をしている人もいるにはいるんですけど少ない気がします。

小説界隈の特徴なのかな?・・・

※作品内容がそのまま作者の実体験であるという読み方をしている?

 

 

*1:あえて、いわせてもらう

*2:もちろん常識の範囲内で作品が嫌いで有ることが前提ですよ?

*3:まじでこういう読み方をする人がかなりいる

*4:作者がインタビューでも受けていれば別かもしれませんが

*5:特にフィクションではそう