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ぐ~たらオタクの似非考察日記

アニメ・マンガ・ゲーム・ライトノベルについて考察するブログです。

努力という病 -バトルエンターティメント作品をどう見るべきか-

アニメ ライトノベル 漫画

前段

アニメや漫画等でよく努力型主人公、才能型主人公。
などとキャラを分類することがある。

個人的には努力型、才能型という括りですべてを分類するのはなかなか難しいし、才能にあふれているキャラの中にも努力をする要素はあり、努力キャラにも才能が埋もれていたなどという話は山ほどある。
また、定義があやふやでどの主人公が努力型なのか才能型なのかといったことを定義しづらい。なのでこの分類にそこまで意味は無いと考えている。

ただ、本記事を語る上である程度の前提は必要だろうということで俺様定義で分類した。

 

努力型主人公:作中で主人公が努力をしている部分を強調したり、意識して描かれる場面が多いとそう呼ばれる。
才能型主人公:作中で主人公が登場時点で能力的に他者より優れていたり、特殊な超能力を持っているキャラがそう呼ばれる事が多いように思う。

 

だいぶあやふやな定義だがイメージ程度で捉えてもらいたい。

 

さて、こういった前述の努力、才能論争であるがこの話をした際にある共通の現象が発生する。この現象にはある種の問題点があると思っておりこの現象が日本のバトルを主体としたエンターティメント作品の物語の方向性を極端に狭めているのではないかと考えた。

そこで本記事では「努力」にまつわる問題点について記述し、またそれを認識した上でどう作品を鑑賞すべきかという部分について考察する。

 

では、まずその現象とは一体なんなのかという部分から見ていこう。

 

あのキャラは努力している。


上記のような才能系、努力系の議論をする際にかならずある種の言葉が飛び交う。
それは

「あのキャラは努力している」

という言葉である。
例えば

・主人公は虚弱な体だったが作中で「努力」して体を鍛え最終的には強くなる。
・「努力」して敵の分析をして不利な能力ながら勝利した。
・過去に「努力」して訓練を行い、現在のような強者になった。
・能力的には強いが、精神的に未成熟で作中で「努力」して大人になる。

といったような内容である。

この努力、才能論争で顕著なのが才能という言葉を嫌悪し、努力という言葉に執着する人をしばしば見るということである。
作中内で努力が強調されているキャラに他方から「こいつ才能あるよな」という言葉をかけられると「そんなことねーよ」と才能があることを否定し、努力で得た力であるという部分を強調する。
才能は悪いことで努力が良いことだと言わんばかりの論調である。

相手は「才能があるよね」と事実を述べただけかもしれないのに、だ。

またこの風潮に根深い問題なのが才能があるキャラ側にまで「努力してるよ」と執拗に発言を行ったりあるいはそうせざるを得ない状況にまで追い込まれるということである。

つまり、「努力してないから糞」という発言に押されて努力をしていると擁護し始める現象が起こるということである。

そこまでキャラとして努力を強調しているわけではないのだが無理にひねり出して擁護し始める。(実際に実は努力しているというパターンも存在するのだがここでは置いておく)


ただ、ここで言いたいのは擁護する側が悪いということを言いたいのではない。

そうしなければその作品を良いものであると説明できないし、また周囲から悪い作品であると見做され叩かれるのである。

「努力が正であり、善であり光、才能が負であり悪であり闇である。」

という二元論で見てしまう風潮があるのではないかということだ。

才能を肯定しない時何が起こるか


この才能を肯定しないという風潮はバトル系のコンテンツを語るときにはしばしばついて回る問題であり、ほとんどどんな作品であろうと逃れることはできない。(と、私は考えている。語られる量の多寡はあるが)

しかしながらこの論調はいくつかの問題点が生じる。

 

①パワーインフレが発生した際に努力型キャラがついていけなくなり登場が少なくなる
あるいは無理矢理潜在能力を開花させ登場場面を増やし物語の軸にぶれを生じさせる問題

②努力が良いものであるという視点からしか作品を語ることができず、
それ以外の物語は唾棄すべきものであるという偏った見方しかできなくなる問題

 

努力型キャラの出番減少と才能キャラへの転身による軸のブレ

①番から語っていこう。

作品内で主人公が一貫して努力してきたキャラとして描写されていた場合にしばしば対立軸として才能型のキャラが登場する。

その場合の類型的なパターンとして

1.才能はあるがそれにあぐらをかいて努力を怠ったために努力側にやられるというパターン
2.才能側より激しい努力をして勝利するパターン(才能側も努力していないわけではない)
3.努力側が才能型を打ち破る。(相手も努力している。あるいはそれに準ずるだけの過去回想が挟まれる。)

長期連載が激しい作品ほど徐々に1から3に移行していく。
なぜなら1のパターンを繰り返しすぎるとマンネリ化するため徐々に敵を強くするためである。
その結果として論理的矛盾が発生していくため話の流れに無理が生じるようになっていく。

1の場合は王道のパターンとしてしばしば使われる物語展開である。
序盤の導入として使われることが多く最近の作品だと僕のヒーローアカデミアが顕著だろうか。

2の場合は相手キャラも努力をするものの努力側が常識はずれの修行や特訓を行い才能を持っている側に勝利するという内容である。1との違いは才能側の怠惰を極端には強調せずに、努力側を徹底的に上げる事で説得力をもたせる手法である。

そして問題なのが3である。
物語の展開として努力の対立軸に存在する才能側はしばしば圧倒的な能力を持ったキャラとして描かれる。
また、ここまでの敵と違い努力も怠らず徹底的な修練を行っており今までのやり方では勝てない相手として描かれる。
延々と2の部分で踏みとどまるという手段もあるがマンネリズムの回避のため結局のところ3に移行してしまう*1
こうなってしまうと努力側にはもはや勝てる理由が存在しなくなる。今までは努力をしていたため勝利できたが今回は相手側も努力している。更にそこに+して才能の力が加わるため勝利できる理由がなくなってしまう。
そうなると結果として努力側に新たに才能を付与するかそれ以外の何かが状況を破壊する意外に打破する手段がなくなる*2

もしそれをせずに敵を倒してしまうと散々相手側も努力をしていたのにボロ負け。

才能もあるし努力もしたがなぜか才能がない努力側が勝利したという根拠が存在しない一種の精神論的展開になってしまうのだ。

つまり気合で勝ったというギャグ要素がついてしまう。

それを回避するためには結局才能や運という要素が絡んでくる。

序盤部分では努力を押し出しつつも最終的には才能や運であるという結論になってしまうのだ。
もちろんこの手法は週刊連載誌では効果的な手法である。序盤は努力という言葉で釣ることができるため読者を引きつけられる。
ただし、長期的に見ると努力キャラという軸がぶれ、後半になるにつれ血統や才能で片付けられるかそもそも出番自体がなくなってしまうようになる。

 

もっともわかりやすい漫画がNARUTOである。

ただし、主人公であるナルトは極初期から九尾という才能に変わる別のものが与えられておりナルト自身にはには当てはまりづらい*3

ドンピシャで当てはまるキャラでいうとロック・リー*4である。

ロック・リーは当初謎のキャラとして登場するが中忍試験が描かれる中で努力系のキャラであることがガイの口から語られる*5

最初は徹底した努力を重ね体術を鍛え上げたキャラとして描かれるが我愛羅と戦ううちに八門遁甲*6を開門。第五門、杜門を開く。

そしてその際にカカシが語る有名な言葉が以下である。

 

「努力でどうこうできるものじゃない。あの子、やはり天才か」

 

ついには努力キャラであることを放棄するような発言が登場キャラの口から語られる。つまり努力系キャラとして売りだしたにも関わらず最終的に才能で片付けられてしまうという軸のブレが発生する。

ただし、ロック・リーは努力型のキャラであることを強調するためにこの場面では我愛羅に最終的には負けてしまう*7

やはり天才かという台詞はコラに使われるほどNARUTO内ではこの類の言葉が頻繁に使用され、ある種のネタにされている。

主人公のナルトは結局のところ4代目火影の息子であり、エリートである。

努力を描写しつつも最終的な説得力は才能に任せてしまい結局才能ある人間であるということになってしまう。

一方で我愛羅に勝利することができなかったロック・リーは終盤になるに連れ出番が大幅に減っていく。

つまり努力を強調するキャラはバトル漫画内では弱者にならざるを得ないのだ。*8

 

努力信仰からくる偏った視点

②番は読者側の視点である。

努力という言葉は非常に魅力的である。

ある種麻薬のような効果を持っており、容易に読者を感動させたり共感させたりすることが出来る*9

①で語ったように週刊誌ではしばしばこの言葉を使用し読者をつかもうとする。

つまり努力は良いことであり感動することであり素晴らしいことであるという共通認識が読者側に一定数存在する。

実際私自身も努力するキャラに共感するし感動する。どん底から立ち上がるキャラたちに自分を重ね涙することもある。

しかし、この努力信仰が行き過ぎると困ったことが起こる。

 

努力は素晴らしい、最高だ。→努力を否定することは良くない→つまり努力しないものは悪である。

 

という思考に陥りがちであるということである。

私はこれを「努力症候群」つまりある種の病のようなものではないかと思う。

これにかかってしまうと努力していな作品がつまらなくなってしまい、作品を見る際の視点が固定されてしまう。努力するキャラに自分を重ね合わせることが快感を生み出しすぎてそこから抜け出せなくなってしまうのだ。 

 

ただ、私はこれを損ではないかと考える。

世の中には努力だけが良いことではないし、様々な視点から作品を見ることが出来る。

例えば巷で俺TUEEEEEと呼ばれる作品であっても面白く見れる。努力をしていようがいまいが面白い作品は面白いのだ。

 

結論

 日本の少年漫画作品*10やアニメ等を語る上で努力は欠かせないものである。

だが、昨今努力は良いもの、努力しないのは悪いという言説がはやり過ぎるあまり作品を純粋に楽しめなくなってしまっている人がいるのではないかと思っている。

実際には努力系作品にも問題は数多く存在し、また逆にそうではない作品にも面白い部分は多数存在する。 

努力していないキャラを嫌うあまりにそういった部分を楽しめないのははっきり言って損であると思う。また、読者の側にそういう風潮が強すぎると作品制作を行う側も努力を過度に強調してしまう。

なぜこのようなことが起きるのかということを考えた時に、読者の側に主人公に自己投影を行い、感動する。

という作品の見方があまりに多すぎるからではないかと考えた。

つまり主人公への自己投影意外に作品の鑑賞の仕方を知らない人が多数存在するのではないかということである。

実際には作品を楽しむ方法は自己投影だけではない。

第三者視点から楽しむこともできるし、漫画であればグラフィックの妙味、小説*11であれば文章の部分に注視して楽しむという見方も存在する。

もし努力する作品が好きでそうでない作品はあまり好きになれないという方がいた場合、一旦距離をおいて冷静に考えてみよう。

本当にその作品は面白く無いですか?

 

*1:でなければ飽きられる

*2:師匠キャラが出てきてお茶を濁したり別の事件が発生して有耶無耶になる

*3:ただし、最終的にはナルトもこの呪縛から逃れられなくなってしまったが

*4:

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*5:幻術も忍術も使えず体術のみを鍛えてきたキャラ

*6:体内のリミッターを外し肉体を強化する、高難度の体術である。

*7:あるいは我愛羅を強調するためかもしれない

*8:ただ、narutoに特徴的なのが全編を通してみると努力型のキャラは雑魚であり、転生者、つまり六道仙人の子孫が強いという点では一貫しており、徹底して才能型のキャラの強さを描いている。ミクロな視点で見るとブレが生じている部分があるということである。

*9:もちろんある程度の準備は必要だが

*10:特にジャンプ

*11:ライトノベル